ラカン派精神分析的“恋愛”入門(第一回)


はじめに(という名の言い訳)


これは、ジャック・ラカンの娘婿、ジャック・アラン・ミレールにスーパーヴァイズを受けた精神分析家ブルース・フィンクの書いた『ラカン精神分析入門』の、特に第1部の精神分析の実践的技法について割かれた『欲望と精神分析技法』を、“とあるもの”と接合しながら読解する、という目的の連載である。

ラカン派精神分析入門―理論と技法

ラカン派精神分析入門―理論と技法

その接合する対象とは、タイトルで名付けたとおり、恋愛である。


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ここ最近、巷では「草食系男子」という言葉が流行っている。野性味にあふれ、いつもギラギラしている肉食獣のような男ではなく、草食動物のように大人しく、性的にたんぱくで、おっとりとした優しいタイプの男のことである。芸能人でいうと、瑛太成宮寛貴みたいなタイプの男のことらしい。そして、男のタイプが肉食系から草食系に変わったのと同じように、女性が男性に求めるものも、三高(高学歴、高収入、高身長)から三低(低姿勢、低依存、低リスク)へ替わったという。


だがしかし、これを期に「俺たちの時代だ!」と勢い勇んで恋愛市場に飛び出していった非モテの諸君は、痛い目に遭って泣きながら逃亡して戻ってきたのではないだろうか。

肉食係女子に食いちらかされる草食動物ですらなく、自分は見向きもされない虫だったというそこの君!
あまりに低姿勢すぎて、そのまま地中深くに埋まってしまって存在自体が感知されないというそこの君!


私が思うに、この事態は今までモテてたやつが非モテに、非モテだったやつがモテにといった「恋愛革命」が起きたという意味ではない。残酷ではあるが、単にモテる男の中でも特にモテるという部類の「トレンド」が変わっただけなのである。またこのトレンドに合わせて、今まで肉食を気取っていたモテる男が、草食系の皮を被って女の子に忍び寄っているという事態も起きているのかもしれない。やつらは狡猾なハイエナだ。狡猾であるからこそ、モテるのだ。
だから、もともとがいくら草食系であったとしても、非モテは始めから相手にされていない、という可能性がある。


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そういう(私を含む)残念な人が開く「モテ本」「恋愛本」の類は、男に対してこう告げる。
「女の子は結論ではなく『共感』を欲しているの!」「女の子は話を聞いてもらいたがってるの!」


今のトレンドに合わせて低姿勢を装い、女性の話を耳を傾け、うんうんと共感してあげること。それは相手に好感を持たれるきっかけにはなるのかもしれない。
だがしかし、それら女子の要望(話を聞いて、共感して欲しい!)を叶えることと、そこからふたりの関係が恋愛へと発展することは、実は全くの別の問題なのである。もしかすると、かわいい彼女の話を聞いて上げていい気になっているあなたが、実は相手が日常で溜め込んだ負の感情をはき出すための、単なる「たんつぼ」に成り下がっていたという可能性は、残念ながら捨てきれない。相手がそれを恋愛だと思わなければ、それは恋愛ではないのだ。
男の我々の目には見えないが、どうも女たちにだけは見えているものがあるらしい。「男女の友情」である。男女の片方が「そんなものない」と言っているのに、どうしてそれで「友情」があるなんていえるのかはよくわからないのだが。
くらたまは言う、「喫茶店で二時間もたない男とはつきあうな!」と。多少横暴ではあるものの、それも一理ある。だが、その二時間の間に2人の間で交わされる会話の内容も、実は重要なのではないだろうか。実はこのことに精神分析的な問題が隠されているのではないかと思い立ったのが、この連載を書くに至った動機だ。


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精神医療における昨今の主流は、薬物療法である。しかしラカン派、というよりか広義の精神分析においては患者が処方されるのは、もっぱら「言葉」である。患者自身の言葉と、その言葉を元に分析家が「調合した言葉」である。


ここで着目したいのは、治療中に分析家と分析主体(ラカン精神分析では患者のことをそう呼ぶ)の間で起こる「転移」という現象である。端的に言えば転移とは、分析過程において分析主体が分析家のことを好きになってしまう、という現象だ。転移については、この連載を勧めていくうちに、解説することになると思うが、別にそれは相手の分析家がハンサムだったからとか、そういうことは関係ない。たとえ相対する分析家が、「ハゲ・デブ・メガネ」の三冠王だとしても、ラカンの理論に従えば転移は起こることになる。すなわち、好きになってしまうのだ。


その後に、今度は分析家の方が逆転移という状況になる。つまり分析家が分析主体に好意を寄せる心性に陥ってしまうのだ。分析家はもちろん、この心性に打ち勝たなければならない。分析によって起こる転移性恋愛は、あくまで分析の過程なのであり、この過程を乗り越えなければ、そもそも診療に訪れた分析主体の要望、「症状の治癒」は果たせない。


しかしもし、この転移性恋愛を分析家でも何でもない我々一般人が扱えたらどうだろう。
つまり、好きな人を自分に転移させれるようなことが、もしできたなら・・・。
なんともウハウハで、わくわくな状況ではないだろうか。
はっきりと言おう。これは、ラカン精神分析における転移性恋愛を、日常的な恋愛に還元して利用できないかという観点から読解する、きわめて大胆かつ危険な(?)連載なのである。


そんなっ、精神分析の技法を恋愛に「悪用」するなんて不謹慎な!


そう思う人は、もう一度考えてみて欲しい。ここでいう悪用のその「悪」とは、いったいどういう意味だろうか。ここでいう悪とは、自分を愛してもいないのに女の子に恋愛を、セックスを強要するということを指すのだろう。例えば、部下に上司が、後輩に先輩が、立場にものを言わせて性的関係を強いるということがある。これらを権力の「悪用」ということに、私は異論ない。


だが、転移の場合ははたしてそのロジックで悪用と呼べるのだろうか。分析主体が分析家に転移するのは、たしかに構造的な事態である。だがしかし、他の「強いる関係」と異なっているのは、主体の方が混じりっけなしの主観的な恋心を抱いている、という点である。先にも触れたとおり、転移が上手くいけば「ハゲ・デブ・メガネ」にでも、転移を起こす可能性がある。それは何も、「ハゲ・デブ・メガネ」の診療所に黒塗りベンツが止めてあったからとか、そいつがもうすぐ死にそうで結婚すればすぐさま莫大な遺産が転がり込んでくるだろうとか、そういった打算的「主観」ではない。またその主観は、ほれ薬や媚薬をお酒に忍ばせて「演出」されたものでもない。繰り返すが分析において患者に処方されるのは、言葉なのだ。


それは文字通り、もうほんとに愛して愛して愛しちゃったのよ、な主観である。おそらく彼に恋した分析主体の中では、「ハゲ」を「苦悩に満ちた人生の証」と、「デブ」を「自信に満ちた証」と、メガネを「勤勉さの証」とぐらいに脳内変換するのだろう。恋愛とはそういうものだ。


要するに私がここで言いたいのは、本人が内発的に主観が醸成されたという核心があれば、それはもう誰にもとがめられないのではないだろうか、ということだ。プロの分析家に許されないのは、それが本来の目的を逸脱するからであって、“アマ”の我々の目的はそれとは違うのだ。
主観こそが、ここでは恋心ということになる。恋する人にあるのは、この人と付き合いたい、ふれていたい、セックスしたいという感情が現に存在する、という事実だけだ。そこまで至れば、むしろ当人にとってはその恋愛が叶わなかった時の方がつらいだろう。その起源に、精神分析の技法が介在していたとしても主観において、「好きになっちゃったんだからしょうがない」なのだ。


そうまさに、愛こそすべて!なのだ。


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この連載では、転移性恋愛を通して前段に上げたような「草食系男子」や「(ただ単に)女の話を聞いてあげる」ということについても、はたしてそれが恋愛において有効なのかどうかという観点からも、批判的に検討する予定である。次回から、いよいよ本文の読解に入っていく。


イマダ


*症候会議の会員への業務連絡
僕が持っていた「草食系男子の恋愛学」という本の行方がわかりません。誰かに貸したのか、ただ単に無くしただけなのか、それすらもう記憶にないのですが、もしイマダのやつを借りた、という方がいらっしゃれば、返していただけないでしょうか。お手数ですが、お願いいたします。また、貸してやるという人がいたら、貸してください。