槇原敬之という才能――多面的な非モテの自我



CDを買っても歌詞カードなんてとんと見ない性分のため、曲を聴いていても何を歌っているのかわからない「虫食い」の箇所に出くわすことがある。さらにめんどくさがりな性分のため、わからなくてもそれでいいやとほっとくのである。それら虫食いは、繰り返し聴くことである日突然パッと靄が晴れたように判明したり、時には前後の文脈で推察できたりするものなのだが、最近、何年も前からずっと聴いていたのにも関わらず、ある1カ所だけ虫食いのあったある曲のどうしてもどうしても判明しなかった箇所に、夕飯の買い物帰りの徒歩の道、ウォークマンで聴いているうちに、僕の脳内で突如として「ピタッ」と言葉がはまってしまったのである。
「はまってしまった」と記したのは、僕の脳内での衝撃度の大きさを表現したかったからだ。こんなとりとめのないことをここに書くのは、その虫食いの穴が埋まり、脈略をともなったひとつの流れとして歌詞が完成したことによって、その曲の詞世界全体が、僕の思っていた以上に多面的な構造をしていたことに気づかされ、その曲の作り手の才能に舌を巻いたからである。僕の受けたその衝撃度の大きさは、歌詞の真の意味に気づいた後、普段より急ぎ足で家に帰り、CDの山からケースをわざわざ探し当て、普段は確認しないその歌詞カードを確認した、というところから推しはかってもらいたい。そして歌詞カードに記されていたのはやはり、僕の聴いたとおりの内容だった。


「歌詞の良さ」なんてものが何なのか、一括りには語れないだろうが、槇原敬之に関して言えばそれはストーリーテリングの上手さ、これに尽きるだろう。詩から先に書く(詩先)と言われている彼の歌詞は、愛や恋といった抽象物をこねくり回すのではなく、あくまで具体的な風景を描き、「ぼく」を中心とした周囲の世界を組み立てていく。ポストにあった同窓会の案内状一枚で遠方の故郷と同級生たちに思いをはせ、台所で紅茶が見つからないという些細な出来事から、元カノの落としていった日常生活の空白を感じとる。時に彼はその一曲一曲を、「ぼく」が主人公の一つの小説にまで昇華させるのである。

プールの監視員が
よそ見をしている
本当の夏はそっちの方に
見えますか
(「pool」『UNDERWEAR』収録 作詞:槇原敬之


歌い出し数行の歌詞で、波のない水面に一滴を落としたかのように世界観が広がっていく。小説という字数において限りなく自由度の高い表現に比べ、歌詞という「文学」は、あまりある制限が課されている。余分な言葉を排除していき、いかに状況を表現していくか。いかに字数に合わせ、なおかつ歌に乗る言葉を紡いでいくか。そんな条件を課されながらも、槇原の歌詞は歌い出しの二言三言で、一挙にリスナーの目の前に「世界」を現前化させる。


そんな中、僕にとって虫食いであった最後のピースがはまった曲、「SPY」である。
「SPY」作詞作曲:槇原敬之

おあずけになったデートに
がっかりしていたけど
偶然君を見かけた
なんて運命的な2人


おめかしというよりちょっと
変装に近い服で
出会った頃なら
きっと見過ごしてた
(「SPY」『PHARMACY』収録 作詞:槇原敬之


のっけから、ここには不気味なアイロニーが潜んでいる。これから起こる悲劇を先取りすればその運命とは、「2人の相性のよさ」などではさらさらないことが、「SPY」というきな臭いタイトルとともに暗に示されているのである。皮肉にも変装のような出で立ちをした「君」にさえ気づいてしまうことに、これまでの「2人の日々」がそれなりに続いていたということも思い起こされる。
この後「イタズラ心に火がついた」「僕」は、即興の「スパイ」として「君」のゆくえを追うことにする。でもそれはまだ単なる「イタズラ心」であり、「スパイ」と自分を称しているあたりも、「僕」はことの重大さにまだ気づいていないのではないか。

君はまわりを気にしながらヤツと
キスをした
(同上)


案の定2番に入り、「僕」の不安が杞憂では終わらないということが明らかになっていく。1番のサビの「信じている」という希望に満ちたリフレインは、2番では「しゃれになんないよ」という強迫的な自問自答に様変わりする。
そして2番のあとの間奏部、僕が長年「虫食い」のままにして聴き流していた箇所が来る。

嘘をついてまでほしい
幸せが僕だったのかい
涙が出てきた
今僕を笑うやつは
きっとケガをする
(同上)


2番で他の男と「不貞」を犯していることが決定的になった「君」を、「僕」はそれでも擁護する。いや、そんな素朴な読みではこの歌詞の意味をすべてくみ取ったことにはならないだろう。ここで「僕」が擁護しているのは、「君」なんかではない。単純に言えば、裏切られたてみじめな「僕」を、実は不貞を犯してさえ「君」が、自分を汚してさえ「君」が手に入れたい対象だったと半ば決めつけることで、「君」に嘘をつかれたことが決定的な「僕」自身の自我を擁護しているのである。
そもそも「君」が「僕」という「幸せ」だけで充足していたのなら、不貞を犯す必然性などどこにもない。「僕」に黙って浮気したのに理由を求めるならば、ただ単にバレるとめんどくさい、それぐらいのことだろう。この半ば破綻しかけた合理化によって、「僕」の醜く愚かな自我が露呈される。この間奏部の歌詞があることによって、この「SPY」という歌は、数多ある他の竹を割ったように清々しい失恋ソングと一挙に袂を分かつ。「僕」は「君」の過ちを単に許したわけではない。「女に裏切られた」ということ、それ自体を認めたくない自我を、防衛したいだけだったのである。そこにあるのは自閉的な「僕」の孤独だ。
さらに、その滑稽さに気づいたリスナーは、すぐさま次の2行で「僕」の手によって釘を刺される。こんなみじめな「僕」を笑い物にするやつを許さない、と。「僕」のキャラクターは、ここで一挙に多面的になっていくのである。


「モテないくせにプライドは高い」


それは非モテの永遠の命題ではないだろうか。外見にまつわるコンプレックスに反比例した姿なのか、それとも他に守るべきものがないからこそせめてプライドだけはという意識が作用するのか、それは定かではない。しかしこの曲を聴いてわかるのは、服装でも顔の作りでもない。非モテの最も醜い「患部」は、目には見えない、その尊大な自我のあり方なのだと。


近年は、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」など、わりとベタなメッセージソングだけが恣意的なまでに取り沙汰される槇原ではあるが、そんな彼の才能はもっと評価されてしかるべき物なのではないかと思うのである。


イマダ