二次元美人は3日で飽きるが、三次元ブスは3日で慣れる



天然ブスと人工美人 どちらを選びますか? (光文社新書)

天然ブスと人工美人 どちらを選びますか? (光文社新書)


読書会の参考文献としてあげた本。本書では、ブスと美人の定義として「天然ブス」「人工ブス」「人工美人」「天然美人」という四つのカテゴリーを儲けている。その顔が天然物(手を加えられていない)か、人工物(手を加えられている)かという二元論は、たしかに重要ではある。依然美容整形に対する偏見が残るこの国において、その美人が人工なのか天然物なのか、その差異は重要なのだ。しかしながら、やはりこの本もといってよいのか、「ある視点」が抜け落ちているとも思った。


顔の美醜論において、あまり言われていないことだが、実は大切なこと何じゃないかと思うことがある。僕が思うに顔の美醜論というのは、マスメディアを始めとする平面媒体を通してみる「二次元美人&ブス論」と、一方で現実において、それこそ飲み会の席で隣に座るような立体的な人をめぐって行われる「三次元美人&ブス論」に分けられると思う。どうも世間一般では、男も女も、評価する側も評価される側も、この二つを混同しているようなのだ。


卑近な例でいうと、僕は共学だった中学校時代の卒業アルバムが、今でも思い出す度に口惜しいのだ。ページをめくるとそこには、当時僕が恋い焦がれていた人も含めて、僕らの学年のかわゆい女の子たちのかわゆい写真がズラリと並んでいるはずだった。・・・はずだったのであるが、どうもイマイチ、卒アルの写真写りが、僕の代の女の子は総じて思わしくなかったのである。要は、本物よりもブスに映っていたのだ。同学年女子の外見のデキは、その代の男たちのメンツにも関わってくる。進学先の高校にて、別々の中学からやってきた者同士、お互いの出身中学の卒アルを持ち寄り見比べるのだが、どうも僕の肩身は狭かった。同じ中学出身の弟にさえ、「お前の代、残念だな」と言われる始末。


そういうとき僕は必死に弁解する、「ちがうんだっ!!この子もあの子もその子も、ほんとはみんなみんなかわゆいんだ!ただ惜しむらくは、その写真写りの悪さ、ただそれだけのことなんだっっっ!!」と。何も僕のメンツのためにもっと美しく映ってくれよと、横柄なことが言いたいわけなのではない。そうではなくて、おそらくあらゆる場所であの卒アルのたった一枚の失態のせいで、会ったことのない男どもからビジュアルの偏差値を実際よりも低く見積もられていたであろうラブリーな同級生の女の子たちが、僕は不憫でしかたがないだけなのだ。しかし彼らにわかるはずがない。実際に目の前で動き、会話し、笑ったり怒ったり泣いたりする表情豊かな顔を持つ彼女たちが、本当はどんなに魅力的だったことか。


たしかに、会ったことのない人のパーソナリティーを知るのに、一番手っ取り早いのは、その人の顔の写真だ。卒アルにおいての表情のデキひとつで、その人の美醜だって決めつけられる。立体的にその女性を知っている人と、平面的にしかその人を知らない人には、そこに埋めがたい断絶が存在するのだ。反対に、平面媒体で見るとキレイな人が、実際に見たらキレイでない、ということもありえるし、よく聞く。


写真はその誕生によって、写実的に現実を映すというそれまで絵画の役割を担うことになった。写真は「現実」を撮す便利な道具である。でもそれは、社会の一側面ではないか。顔だって同じだ。メディアに映る平面は一つの視点、それもとっておきの視点しかないが、立体の場合視点は無数にある。いくら美人でも、全ての視点からの写りをカバーすることはできっこない。
広告に映る手タレの手を見て、足タレの足を見て、そのモデルの全てを知ったと思うヤツなんていないだろう。それと顔の写真では話がちがうと言われる知れないが、そのように「顔は誤魔化しようがない」という先入観があるからこそ、顔は人を裏切るのである。例えば、CDジャケットや雑誌のインタビュー記事ではかわゆいと思ったアーティストでも、HEY!HEY!HEY!などに出てるのを目にすると「ありゃっ!?」という人がいたりする(個人的にはエイベックス所属のアーティストに多いと思う)。そのように写真写りは実物を反映していないとわかっていながらも、それでもなおさきの卒業アルバムの件の様に、写真写りにその人の実際の美醜の評価を委ねてしまうことで、「二次元美人」の価値観が、いかに浸透しているのかというのがわかるだろう。


「二次元美人&ブス論」と「三次元美人&ブス論」の混同は、対象となる女の側にも、対象を評価する側の男にもあると思う。
女性の側はよっぽどのことがない限り、美醜で悩みとは、二次元美醜論的な悩みだ。「左斜め45度からならかわゆく見える」とか、「真っ正面から視ると顔がでかく見える」とか。就活で久々に東京駅の八重洲口あたりを歩いていたらびっくりした。みなさん、東京の女は依然、浜崎あゆみみたいなのばっかりだぞ(やや偏見込み)!信望する有名人のメイクを真似するというのは、いつの時代もあることかもしれないが、あゆっぽくするメイクがこうも何年も流行っているのは、もしかすると彼女の顔が平面的に流通しているからではないだろうか。思い返せばあゆの写真って、真正面からのものが多くないか。長年真正面から写真を撮られ続けた結果、彼女の顔は社会の中でもはや一つのアイコンとして成立してしまっているのだ。極度に記号的であるからこそ、「二次元美人」としてのあゆのメイクが真似したくなってくるのではないだろうか。
しかし、「二次元美人&ブス論」というのは、あくまでマスメディアの平面に画像や映像が映し出される際に生み出された、ひどく限定的な価値観なのである。


一方で、「二次元美人&ブス論」に毒された男の側にも罪がないわけではない。
井川遥伊東美咲が流行ったとき、よくテレビの街頭インタビューなんかで、結婚するなら井川遥伊東美咲と答えていたサラリーマンがいたが、僕は意味がわからなかった。彼女らを美しいと認識する美的価値観には僕も同意するが、それと付き合いたいとか、結婚したいとか思うのは別物だろうと思うのだ。どう表現すればいいのだろう。なんというか、芸能人を始めとするマスメディアに映る美人は生活感、というか「リアルな部分」がないのだ。
二次元美人というのは、主に顔の造形が美しく均整がとれている人たちである。しかし、現実において彼氏をゲットしたいという人は、そこにこだわっても仕方ないのではないか。二次元の世界に棲息する彼女らをいくら追い求めようと、絶対的に「二次元の彼女たち」にはたどり着けないのだ。一休さんの「虎を屏風からだしてください」の話はだれもが知っているだろう。


僕が言いたいのは、男も女ももう「二次元美人」を追いかけるのはやめようよ、ということ。もちろんテレビや広告メディアをにぎわす「華やかなもの」として彼女らを視るのはいいけれども、「彼女たちのようになりたい」とか「彼女たちに似た女性を捕まえよう」とか思うのは、絵に描いたもちというのか、不毛ではないだろうか。


僕は決めた。女の子の美醜を考えるときは、写真になんかにはもう頼らないということを。考えてみれば、その人に面と向かいもせずに、その人に評価を下すなんて、失礼じゃないか。男の風上にも置けない。これから僕は、その子の周りを行ったり来たりしながらジロジロなめるように眺め回して、三次元の情報を十二分にスキャニングしてから、自信を持って「ブスだ!」と判断する。


イマダ